ひつまぶしを初めて食べたあの夜、なぜ4つの食べ方があるのか分からなかった
名古屋の栄で初めてひつまぶしを食べた夜、私は目の前の木製の四角い器を前に、少し戸惑っていました。店員さんが丁寧に説明してくれたのは「4つの食べ方」。一杯目はそのまま、二杯目は薬味を乗せて、三杯目は出汁をかけて、四杯目は好きな食べ方で——。頭では理解したつもりでしたが、正直なところ「なぜわざわざ4回も分けるのか」という疑問が拭えませんでした。
うな重やうな丼なら、タレのかかったウナギをご飯と一緒に食べて終わり。それで十分満足できるのに、なぜ名古屋のひつまぶしだけが、こんなに手間のかかる食べ方を求めてくるのか。当時の私には、それが名古屋という土地の文化なのか、それとも単なる演出なのか、判断がつきませんでした。
一枚目と二枚目で、同じウナギが別の顔を見せた
とりあえず言われた通りに、一杯目はそのままご飯とウナギを口に運びました。タレの甘辛さと、ふっくらとした身の柔らかさ。これだけでも十分美味しい——そう思った直後、二杯目で青ネギと山葵を乗せてみると、驚くほど印象が変わりました。タレの甘さが山葵の辛味で引き締まり、ネギの香りがウナギの脂を軽くする。同じ器の中なのに、まるで別の料理を食べているような感覚でした。
三杯目、出汁をかけた瞬間、さらに世界が広がりました。濃厚だったタレが出汁で薄まり、するすると喉を通る。ウナギの旨味が出汁に溶け出して、ご飯の一粒一粒まで染み込んでいく。この「層を重ねるごとに味わいが変わる」体験は、江戸から続くうな丼文化とも、関西の蒲焼文化とも違う、名古屋独自の発明だと後で知りました。
4つの食べ方は、いつ、なぜ生まれたのか
帰宅後、私はこの疑問を調べ始めました。ひつまぶしの発祥については諸説ありますが、名古屋で確立されたのは明治から昭和初期にかけてと言われています。江戸期にはすでにウナギを裂いて焼く技術が各地に広がっていましたが、名古屋では「おひつ」にご飯とウナギを入れて提供するスタイルが生まれました。
当初は単に「まぶす」ことで冷めにくくする工夫だったとも、複数人で取り分けやすくするためだったとも言われています。しかし昭和期に入ると、薬味や出汁を添える店が増え、「4つの食べ方」という形式が名古屋文化として定着していきました。これは単なる演出ではなく、ウナギという素材を多角的に楽しむための、名古屋の食文化が編み出した知恵だったのです。
出張先で何気なく入った店で体験したあの夜の驚きは、江戸から昭和にかけて積み重ねられた食の工夫の結晶を、私が初めて受け取った瞬間だったのだと、今なら分かります。そしてその驚きが、私を「もう一度、あの味を再現したい」という探求の道へと引き込んでいくことになりました。
名古屋でひつまぶしが生まれたのは江戸時代ではなく昭和に入ってから
「ひつまぶしは江戸時代から名古屋に伝わる伝統料理」——そう思っていた私は、名古屋出身の同僚から「実は昭和に入ってからなんだよ」と聞いて驚きました。うな丼やうな重なら江戸の文献にも登場しますが、ひつまぶしという名前と食べ方が確立されたのは、意外にも戦後のことだったのです。
江戸時代の名古屋にあったのは「細かく刻んだウナギの丼」
江戸時代、名古屋を含む尾張地方では確かにウナギが食べられていました。ただし当時は「ひつまぶし」という名前ではなく、ウナギを細かく刻んでご飯に載せた丼物として提供されていたようです。これは出前の際にウナギが冷めにくく、ご飯と一体化して食べやすいという実用的な理由からでした。
江戸では蒲焼きを背開きにして蒸さずに焼く「江戸前」のスタイルが主流でしたが、名古屋では腹開きにして蒸してから焼く関西風の調理法が取り入れられていました。このため同じウナギ料理でも、江戸と名古屋では調理法が異なっていたのです。
「ひつまぶし」という名前と4つの食べ方が生まれたのは昭和期
現在私たちが知る「ひつまぶし」——木製のおひつに盛られ、4つの食べ方で楽しむスタイルが確立されたのは、昭和に入ってからです。諸説ありますが、名古屋市内の料理店が昭和初期から中期にかけて、この食べ方を考案したとされています。
当時の名古屋は、戦後の復興期を経て経済成長を迎えていました。ビジネスマンの接待需要が高まり、単なる丼物ではなく「料理としての演出」が求められるようになったのです。そこで生まれたのが、一つの料理で複数の味わい方ができる「ひつまぶし」という形式でした。
- 一膳目:そのまま、ウナギとタレとご飯の味を楽しむ
- 二膳目:薬味(刻みネギ・山葵・海苔など)を加えて風味を変える
- 三膳目:出汁をかけてお茶漬け風に
- 四膳目:好みの食べ方でもう一度
この4段階の変化が、ひつまぶしを単なる「ウナギ丼」とは一線を画す、名古屋独自の食文化として確立させたのです。
昭和後期に「名古屋めし」として全国に広がった
ひつまぶしが全国的に知られるようになったのは、昭和後期から平成にかけてです。名古屋が「味噌カツ」「手羽先」「きしめん」とともに「名古屋めし」として観光PRを強化したことで、出張や観光で訪れたビジネスマンや旅行者の間で口コミが広がりました。
私が初めて栄の老舗でひつまぶしを食べたとき、店員さんが丁寧に4つの食べ方を説明してくれました。その瞬間、「これは単なる料理ではなく、体験なんだ」と気づいたのです。江戸時代から続く伝統料理だと思い込んでいましたが、実は昭和に入ってから名古屋で磨かれ、確立された比較的新しい食文化だったという事実に、むしろ親しみを覚えました。
発祥が古ければ良いわけではなく、時代に合わせて進化してきた結果が、今の「ひつまぶし」という形なのです。
発祥には諸説あるが、共通するのは「余ったウナギを温め直す工夫」だった
ひつまぶしの発祥については、明治期に複数の店が独自に生み出したという説が有力です。名古屋の栄や熱田界隈で店を構えていた老舗が、それぞれ「うちが元祖」と名乗っているため、確定的な答えは出ていません。ただし、どの説にも共通しているのは、「余ったウナギを翌日も美味しく食べるための工夫」から生まれたという点です。
江戸のうな丼とは異なる、名古屋独自の事情
江戸前のウナギは、背開きにして蒸してから焼くことで、ふっくらとした食感を生み出します。一方、名古屋では腹開きにして蒸さずに直火で焼く「地焼き」が主流でした。この地焼きは香ばしく皮がパリッとする反面、時間が経つと固くなりやすいという弱点があります。
出前や持ち帰りが増えた明治から大正にかけて、この「固くなる問題」が深刻化しました。そこで考案されたのが、ウナギを細かく刻んでご飯に混ぜ込み、温かい出汁をかけて食べるという方法です。刻むことで冷めたウナギでも食べやすくなり、出汁によって温度と水分が補われ、食感が復活する——この実用的な発想が、ひつまぶしの原型になったと考えられています。
「おひつ」に入れた理由は保温と再加熱の両立
当時、料理を保温する道具として「おひつ」は一般的でした。木製のおひつは余分な水分を吸い取りつつ、ご飯を適度に保湿してくれるため、ウナギとご飯を混ぜて入れておくと、時間が経っても味が落ちにくかったのです。
さらに、おひつごと温め直すことで、ウナギの脂がご飯全体に馴染み、均一に香りが立つという利点もありました。この「混ぜる・保温する・温め直す」という三段構えの工夫が、名古屋のウナギ文化として定着していきます。
4つの食べ方は、後から体系化された
現在のように「そのまま・薬味・出汁・お好み」と順番を決めて食べるスタイルは、昭和に入ってから整理されたものです。最初は単に「好きに食べてください」という提供方法でしたが、観光客や出張客が増えるにつれて、「どう食べたらいいか分からない」という声が増えました。
そこで店側が、味の変化を楽しんでもらうために順番を提案するようになり、それが名古屋のひつまぶし文化として広まっていったのです。発祥の工夫は「余り物を美味しく」でしたが、結果として生まれたのは、一つの料理で四つの味わいを楽しめるという、他に類を見ない食体験でした。
私が初めて名古屋の老舗で食べたとき、この「順番」の意味を理解していませんでした。帰宅後に調べて初めて、この食べ方が単なる演出ではなく、温め直しの工夫から生まれた文化だと知り、もう一度食べに行きたくなったのを覚えています。
なぜ名古屋だったのか——土地の商習慣と出汁文化が背景にある
商人文化が育てた”もてなしのウナギ”
名古屋がひつまぶしの舞台になった理由は、ウナギの産地だったからではありません。実際、江戸期から昭和にかけて、名古屋周辺で大規模なウナギの養殖が行われていた記録はほとんどなく、むしろ三河湾や木曽川から仕入れていた記録が残っています。ひつまぶしが名古屋で確立されたのは、商人の街としての接待文化と、出汁を重視する土地の味覚が背景にあったからです。
名古屋は江戸期から織物・陶器・醸造業で栄え、商談や接待の場が多く設けられていました。取引先を招く際、限られた時間で満足してもらうには、一つの料理で複数の味わいを楽しませる工夫が求められました。ひつまぶしの「そのまま・薬味・出汁・お好みで」という4つの食べ方は、まさにその要請に応えるものだったのです。
名古屋の出汁文化が支えた”茶漬け”の発想
ひつまぶしを語るうえで欠かせないのが、名古屋の出汁文化です。味噌煮込みうどんやきしめんなど、名古屋には出汁をしっかり効かせた料理が多く根付いています。江戸のような濃口醤油ベースではなく、鰹と昆布の合わせ出汁を丁寧にとる習慣が、家庭にも料理屋にも浸透していました。
ひつまぶしの3杯目に登場する出汁茶漬けは、この土地の出汁文化があったからこそ成立した食べ方です。甘辛いタレで焼き上げたウナギに、あっさりとした出汁をかけることで口中がリセットされ、最後まで飽きずに食べ進められる。この甘みと出汁の対比は、名古屋の味覚感覚そのものだったと言えます。
昭和期の確立——”名古屋名物”としてのブランド化
ひつまぶしが「名古屋の食文化」として全国に認知されるようになったのは、昭和30〜40年代です。高度経済成長期に入り、出張や観光で名古屋を訪れるビジネスマンが増えると、接待や土産需要に応える形で、ひつまぶしは名古屋を象徴する料理として定着していきました。
当時の記録を見ると、栄や丸の内といったオフィス街に、ひつまぶしを看板に掲げる店が次々と現れています。単なるうな丼ではなく、「名古屋でしか食べられない特別な食べ方」という付加価値が、出張帰りの手土産話として広まり、やがて全国区の知名度を獲得していったのです。
江戸期の商習慣、名古屋の出汁文化、昭和の経済成長——これらが重なり合った結果、ひつまぶしは名古屋という土地に根を張り、今も多くの人に愛され続けています。
江戸のうな重との決定的な違いは「一人前を複数回に分けて食べる」発想
ひつまぶしが江戸のうな重と決定的に異なるのは、「一人前を一度に食べ切らず、複数回に分けて味わう」という発想です。江戸のうな重は、最初から最後まで同じ味で押し通すのが潔いとされてきました。一方、名古屋で確立されたひつまぶしは、同じウナギを四段階に分けて食べることで、まるで四つの料理を一度に味わうような構造になっています。
初めて栄の店で食べたとき、「一膳目はそのまま、二膳目は薬味で、三膳目は出汁をかけて、四膳目は好みで」と説明されて、正直「面倒だな」と思いました。でも実際に試してみると、一膳ごとに味わいが変化していく体験は、うな重では得られない驚きでした。一膳目のタレの甘辛さが舌に残ったまま、二膳目で山葵と青ネギの清涼感が加わり、三膳目で出汁が全体を包み込む——この変化は、江戸のうな重が「完成された一品」として提供されるのとは、根本的に考え方が違います。
江戸と名古屋、味の構造の違い
江戸のうな重は、タレとご飯とウナギの三位一体で完結します。職人が焼き上げた段階で味は決まっており、客はそれをそのまま受け取る形です。一方、ひつまぶしは客が味を組み立てる余地を残しています。薬味をどれだけ乗せるか、出汁をどのタイミングでかけるか、最後はもう一度そのままで食べるか——選択肢が用意されていて、食べ手が関与できる構造になっています。
この違いは、江戸と名古屋の食文化の成り立ちとも関係しています。江戸は職人文化が強く、「店が提供する完成形を味わう」ことに価値が置かれました。一方、名古屋は商人の町として発展し、「客が自分好みにアレンジする余地」を残すことが好まれた背景があります。ひつまぶしの四段階の食べ方は、その文化が形になったものと言えます。
「分けて食べる」ことで生まれる発見
通販で取り寄せて自宅で温めたとき、最初は「全部タレをかけて食べたい」と思いました。でも、我慢して一膳目をそのまま食べてみると、ウナギ本来の脂と香ばしさがはっきり分かりました。二膳目で薬味を加えると、山葵の辛味がタレの甘さを引き締め、青ネギの香りがウナギの脂を軽くしてくれます。三膳目で出汁をかけると、今度は茶漬けのような軽やかさが生まれ、最後の一膳は「もう一度そのままで」と戻りたくなる——この往復する味わいは、うな重では体験できません。
江戸のうな重が「一本の物語」だとすれば、ひつまぶしは「四つの短編集」です。どちらが優れているという話ではなく、食べ方の設計思想が違うのです。名古屋で確立されたこの「分けて食べる」発想は、その後全国に広がり、今では関西や関東でもひつまぶしを提供する店が増えています。ただ、本場の店で食べると、この四段階の変化がより鮮やかに感じられるのは、やはり長年の蓄積があるからだと思います。

